■ 大牟田青年会議所の歴史

    ■ 大牟田青年会議所とは      ■ 歴史

 

  昭和29年、当時全国的に戦後復興の行われる中、大牟田の経済界はまだまだ低迷していた時期にあり、その将来を誰もが危惧し、日本が今日のように経済大国になろうとは誰も予測し得なかった時代、この大牟田にロータリークラブが出来た。

 
   

戦後、大牟田市の産業構造は植民地経済と言われ、自由企業に対する自信、経済的正義、更には人生の意義の追求、地域社会に対する考察に至るまでも忘却へ追いやられる結果となった。しかし、このような中からも正義を愛し、人類社会に寄与せんとする情熱は、この殻をも破り理想を求めて立ち上がったのである。 
  昭和29年、当時全国的に戦後復興の行われる中、大牟田の経済界はまだまだ低迷していた時期にあり、その将来を誰もが危惧し、日本が今日のように経済大国になろうとは誰も予測し得なかった時代、この大牟田にロータリークラブが出来た。  戦後、大牟田市の産業構造は植民地経済と言われ、自由企業に対する自信、経済的正義、更には人生の意義の追求、地域社会に対する考察に至るまでも忘却へ追いやられる結果となった。しかし、このような中からも正義を愛し、人類社会に寄与せんとする情熱は、この殻をも破り理想を求めて立ち上がったのである。

 

つわものたち

 

  先の4氏の呼びかけに呼応して、郷土復興の使命感溢れる7名の若者達が次々と松屋に集まり初会合した。当時、九州相互銀行渉外係中里氏が奔走。しかしながら、互いに面識ある者は少なく、全て初対面でお互いに名刺を出して挨拶した仲だったのである。そこで、まず親睦に重点を置き活動を始め、「親睦に一番手近なことは酒を酌み交わすことだ」と衆議一律100円(後に300円現在3,000円)出しで、当時の魚市場の寮(現在の新みなとの東の一角)に集まり、竹輪、かまぼこだけで酒を呑むようになり、この集まりを「つわもの会」と称するようになった。

 
 

  つわもの会の名物男はカニガチョンの蓮尾さん、薩州鹿児島兵六踊の富重さん(当時薬王院店長)、司会の天才、漫才落語の寺沢さん(当時の京屋店主)である。特に威力を発揮したのは寺沢さんで、時折、論議が沸騰し少し陰険な空気になると彼独特のトンチや落語で皆を笑わせ、和やかな雰囲気の中で意見の発表が出来るようになり、お陰で親睦の実は急速に挙がり、全員10年、100年の友になり談論風発、色々な構想・発想が生まれた。しかも出席率が非常に良く常に80%以上の参加を得ていたので何か新しい事業の発案があると早々臨時総会に切り換えて直ちに行動に移りJC発展の礎となった。

 
 

1955年7月16日

 

  会の発足当初は、全員で手分けをして知り合いの家庭を訪問し勧誘して回り、22名のメンバーが料亭“ひさご”に集った。数回の会合を重ねた後に、「会がある以上、会の名称をつけなければならないがどんな名称にしようか?」と考え周囲を見回していた頃、既に福岡・久留米には、このような若者の集団があり、青年会議所という全国的な組織の会があることを知った。
 早々に定款その他を取り寄せ、研究を重ねた結果、我々の考えていることと、その趣旨が同じであり、我々も大牟田青年会議所という名称にしようということになった。
 このようにして名称の決まった大牟田青年会議所準備会は、この年の6月に第1回目の準備会を開き色々な意見を交わした。

 
 

◆JC的な狙いを多分に加味した 少数同志の集りにしよう。
◆狭い政治目標は持たないことにしよう。
◆出発後の動きは特に慎重にし、 
  研究期間を設けて、充分性格を整理する。
 ◆日本JCへの加盟は特に急がない。 等々

 
 

 このような経過を辿り、福岡・久留米両JCに スポンサーとなっていただき、昭和30年7月16日に19名 のチャーターメンバーが集まり、第1回の創立総会を開き、 全国で86番目・九州で15番目という大牟田青年会議所が
誕生したのである。

 
 

OB 第一号

 

  創立に至る経緯は先に述べた通りであるが、その創成期を語るに欠かせぬ一人の人物を紹介しておこう。細谷重夫氏がその人である。創成期の大牟田青年会議所がその組織固めに、また、対外活動に細谷氏を必要としたことは、氏が連続4期事務局長(現在の専務理事)を務めたことからも分かるであろう。当時駅前の丸通の社員であった(総務課長)氏は古賀氏より依頼を受けた。(「会社の業務として手伝ってくれないか?」)
  三井依存の歴史が長かっただけにビジョンの次元を高く持つことが困難な時代であった。
 「当時のJCは奉仕団体的な、或いはそれを通じてのトレーニング団体的なニュアンスが感じられる程度で、まだまだ政経不可分・福祉国家・地域開発といった問題についての行動的な裏付けやビジョンは乏しかったが、創立当初よりその志向するところは日本社会の縦割的構 造の中から社会連帯感による地域開発とその上に立つ福祉国家の建設という事でしたよ」(しづくより)
  大牟田青年会議所創立当時、JCには定まった事務所がなく、会員の事務所の一部を借り転々としていた。一番長く事務所になっていたのは丸通の事務所であった。これは細谷氏がそこに居たからであり、裏方としての細谷氏の活躍が、大牟田青年会議所の礎を築くその発展に大きく寄与したことは言うまでもない。 
  また、細谷氏は、大牟田青年会議所創立と同時にOB第1号となった全国でも類い希なJCマンであろう。

 
       
 

幻の承認城

 

  前述したとおり、昭和30年7月16日に円仏氏・執行氏・古賀氏・宮村氏と福岡JCの菊竹氏・具島氏、久留米JCの田中氏・喜多村氏らの協力により大牟田青年会議所は誕生した。定款や会則は久留米JCのものをそのまま用い、名称を大牟田に変更しただけで出発した。
  初代理事長には田畑博一氏が就任した。この年を語る前に日本に於けるJC運動について述べよう。
 1948年(昭和23年)日本が敗戦から必死で立ち上がろうとしていた頃、祖国再建への使命感みなぎる青年が、「多くの同世代の戦友が、この国のために戦死した。生き残った自分の人生を祖国復興に傾注しよう」と決心し行動を始めた。
  三輪善兵衛(当時28才 ミツワ石鹸)である。彼の元に集った者たちにより1949年(昭和24年)9月3日に東京青年商工会議所が設立された。(後に商工会議所法の施行に伴い、類似名称が禁止され東京青年会議所と呼ぶ。)この設立が日本に於ける最初であり、この東京JCの活動がJC運動の始まりである。戦後の混乱状態を一刻も早く収拾し、日本の進路を切り開くべきであり、そのためには青年の力を結集する以外にない、という意見が青年経済人の中から起こり誕生したのである。以来その趣旨に賛同する者が他の都市にも広がり大阪・前橋・函館・西宮・名古屋にと青年会議所が設立されていき、その連合体としての日本JCの設立の気運が起こり、東京JCが発足して2年目の1951年2月9日に、通産省に社団法人日本青年会議所設立認可申請を行い認可された。
  その設立趣意書には、「全人類の光明は、我々青年会議所の純粋な正義感と、目的完遂の確固たる実行力に裏付けられて初めてその輝きを見いだし得る。日本経済の建設にたずさわる我々青年が同志相寄り、相互の啓発と社会への奉仕とを通じて、広く全世界の青年と提携し、経済社会の現状を研究して、その将来進むべき方向を明確にし、経済界の強力な推進力となり、日本経済の発展に寄与せん」とある。
  一方、東京青年会議所の設立趣意書には「新日本の再
建は我々青年の仕事である。今日の日本の実情は極めて苦難に満ちている。この苦難を打開してゆく為に採るべき途は国内経済の充実と、国際経済との密接なる提携である。その任務の大半を背負っている我々青年は、あらゆる機会を捕えて互いに団結し自らの修養に努めなければならない」とある。
  トレーニング(個人の修練)・サービス(社会への奉仕)フレンドシップ(世界との友情)といったいわゆるJC三原則からは、青年会議所の黎明期における運動の方向性を伺い知ることが出来よう。自らの経済人としての企業に於ける立場、そして、戦後復興を担う若者としての気概から、まず自らを鍛えようと「個人の修練」が生まれた。
  この三原則は互いに絡み合っていると理解された。若者が集って自己啓発修練し、その力で社会奉
仕をする。更に、その修練・奉仕を支える力として会員全体を貫く友情がある。その一方、奉仕に徹することもまた修練になると理解されていた。